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1979年11月21日(水) 朝日新聞
子育て論争 読者の反響から
コロッケ
「居座り専業…胸を張ろう」
子どもを守るトリデ再認識 |
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「女は家に」というのは、これまで女にとって、いやというほど聞かされてきたせりふだ。そこで、これを裏返して、「女も外へ」。共働き時代の流れは、そうだ。でも、こう決めつける前に、「居直り専業」とでもいった主婦たちの言い分も聞いてほしい。まずは、山口県吉敷郡・主婦・関ヨシミさん(44)が寄せてくれた便りから―
私には共働きなんて、とうていできないのです。この三日間、町の文化祭のために公民館に詰めていて、やっと解放されて、まずやったことは、30個のコロッケなんです。コロッケを作ることだったのです。
二時間もかかったでしょうか、ジャガイモをつぶして肉をいためて、大きな中華なべに油をなみなみと入れて……一つ一つスーッと滑らせていく……何と気持ちがよかったことか。高く高く盛り上げたコロッケ。パクついている子どもたち。ああ、やっと、もとの生活に戻りました。たった朝9時から5時までだったのに……しかも三日間だけですよ。
私には共働きなんてダメなんです。肉まんを40個も作り、子どもたちが片っ端から平らげる姿をみている時が、一番幸福なんです。豆腐を作り、パンを焼き、つけ物をつけ込んでいる時が、一番幸せなんです。
財布が寂しくなると、大根の葉と目玉焼き、ヒジキに切り干し大根、ニヤッと笑って差し出すのです。おなかの皮がよじれるほどおかしいのです、息子たちの「またかあー」という顔が。精米機のダイヤルを黒、白、黒と調節し、イリコを三匹おわんに泳がせ、大根の間引きをざる一ぱい食卓に据える。これ、みんな、私と私の家族との無言の会話なのです。
私はいま必死になって、足を踏ん張って、守っているのです。何をかって ? ホラ、ここにあるアッタカーイ、フワフワっとした雲みたいなものを。これはすぐ逃げてしまうのです。懐がちょっと温かくなって、財布がふくらんでも逃げちゃうのです。だから私、絶対に共働きしないんです。
でも、社会への参加はあるのです。「一日三匹イリコを食べよう」って、もう3年も叫んでいるでしょう。私は教員の免許状は持ってるし、子供は高2と小4の二人だし、共働きの条件はそろっているのです。けれど……です。
女が外に出て行くことが「進歩的であり、社会参加だ」という図式を立てていけば、関さんのように手づくりで手のかかるやり方は、「時代遅れ」となるのだろう。でも、ここでは、その図式をもう一度、見直してみたい。 |
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1977年(昭和52年) 12月12日(月) 朝日新聞
虫歯作らせてはダメ お母さんへ手作り奨励 1日3匹いりこを |
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小さな芽
1年が間もなく終わろうとしている。ここに登場するのは、それぞれの地域、職場で、働くもの、母として行動した人たちである。健やかな生活を願い、むしばまれた慣習の廃止に、差別の解放に目を向けたこの小さな芽≠ェ花開くことを新しい年に期待して。
中学3年、小学2年の2児の母親、関ヨシミさん(42)=山口県吉敷郡小郡町=は6月、PTA活動として「1日3びきいりこをたべよう」とお母さんたちに呼びかけた。スーパーのいりこは空っぽになった。歯の先生はこの運動を学会で報告した。そして11月、「ひととき」欄で、その経過を報告した。共感や励ましの電話、手紙が相次いだ。
「きっかけは、子供が通っている小学校が歯の治療状態がいいということで表彰されたことからです。それも結構。でも要は虫歯を作らないことでしょう。それは学校のやることではなく親のつとめです。歯をみがく、口をすすぐもいいけど、甘いお菓子を食べさせていてはカルシウム不足になります。お母さん、子供の健康を守るため、手近にある、いりこを食べさせましょう≠ニいうことだったのです」ジーパンにセーターの関さんは血色がいい。お茶受けに出たのが、から揚げのいりこと、香ばしい自家製クッキーようのもの。おふくろの味がする。
「これ冷やご飯、おから、脱脂粉乳、卵をまぜて揚げたものに黒砂糖をちょっと、からませたのですよ。残り物は、みなこうして利用します」
大きな反響呼ぶ
関さんはこれまでノーパック、合成洗剤の追放、無漂白パンの実施など、自分の問題として、ひとり実践してきた。そのなかでも、このいりこ3びき♂^動ほど大きな反響を呼んだものはなかったという。それは虫歯に困っている現実と、組織、つまり母親たちが信用している学校を通したこと、そして、これこそ母親の勘によるいりこ3びき≠ニいう具体的なスローガンにあったのではないか、と分析する。
これまで、運動という社会的な活動にも、どんな政党、グループにも入ったことがない。ところが昨年、子供が入学してPTAの保健給食委員となり、どうしても黙ってはおられなくなった。
例えば保健の先生から、こんな心が暗くなる話を聞かされた。ある日、「おなかが痛い」と泣く子に食事をさせたらケロリと治った。すきっ腹の登校だったのだ。
1クラスに、朝食抜きのこんな子が1割はいる、と。給食に目を向ければ。なぜ、子供たちに漂白した真っ白なパンを食べさせるのだろう、などと疑問は次々にわいた。
「でも1年間はコテンコテンにやられました。あなた、給食のことをいうのは政治ですよ≠ニもいわれて。何もしゃべれないんです。けれど子供が何を食べているのか、母が知ろうとするのは当然でしょう」せめて話し合う場だけでも、と有志のお母さんたち6、7人と公民館に生活学校が生まれた。
いろいろと経験
チャキチャキの江戸っ子。昭和36年、大学助手として赴任の夫とともに山口へ。月給1万5千円。自分の手で作らねば食べてはいけなかった。生まれて初めて肥えをくみ、野菜を作り、そうして16年がたった。パン、豆腐、みそ、チーズにおやつ、洋服ばかりか着物を染め、縫う。「自分で作れないものは買わない」オール手作りの暮し。そして、ある日、ふと周りを見たら、これは、これは。朝食を作らないお母さん、パートに出てインスタントラーメンを食べさせているお母さん、いりこの出しの味さえ知らない若いママがいる。小学校4年の時に集団疎開。きれいな多摩川で泳いだこともある。今は汚染されたその川。飢えの時代、よい時代、すべての日本を知っている最後の世代、ともいう。
「そう思ったら40の声を聞いてウカウカしてちゃダメ。若いお母さんたちに生活の大事なことを伝える義務があると考えたのです。きれいな日本にして次代に渡さなければ」
初めのブームは去って、いまスーパーのいりこは元の姿にかえりつつある。じっとしてはいられない気持ちを「ひととき」に書いた。
家族を守ること
「いりこを3びき食べればいいの∞いりこを3びき食べたって何になる≠ニいわれる方がいます。私の願いはそうではなくお母さん、せめて、いりこの出しで、みそ汁くらい作ってください≠ニいうことなのです」母、妻の役目とは何か、それは家族を守ることではないかと関さんは繰り返す。行政の怠慢をつく前に、そこにある事実をふまえ、自分で確かめ、ぶつかったら歩き出す実践派の言葉には重みがある。
このごろPTA活動も「こんなにすいすい通っちゃっていいのかしら」と思うほど風通しがいい。「子どものことを本気で考える普通のお母さんの話、というのが分かってもらえたのでしょうか。また私自身にも、PTA活動は学校の目標とともに歩まねば、という反省にもなりました」 |
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生活学校 1978年1月号
一人ひとりの母親が家族をいつくしみ・・・
消費者運動とは、多くの人間が集まって叫び、宣言し、
署名することではない― と 、関さんはいう。 |
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◆話し合いの場を求めて・・・
私が山口県に引越してきたのは、昭和36年だったと思う。東京という大都会から、山口県鋳銭司鷹の子・湯田・小郡と居を移し、2人の子を育て、振り返ってみたら、16年経っていたのである。
鷹の子村での自給自足の生活、無医村に近い状態、ここで子供を生み育てることの難しさ。しかも大学の教師の月給、私がその3年間に考え、実行したことは、栄養があり、安く、安全なものを家族にどうしたら食べさせられるか― という一言に尽きる。結論は簡単、「自分で作ること」であった。湯田に移っても同様、小さな庭を耕したのは言うまでもない。ただ夢中だった。家族の健康を守るだけで・・・・。
16年前に今ほど添加物も洗剤もない。加工食品もそれほど恐れることはなかったろう。だが、同じ金額をだすと、自分で作った方が量が多かった。その魅力には勝てない。私はパンからトーフに至るまで作った。そして習慣とは恐ろしいもので、現在まで続いている。
それが、ふと子供の手も離れ囲りを見るとどうだろう。加工食品・プラスチック・調味料・・・・と、川は洗剤で泡だち、野菜は農薬で光り、既製服は町にあふれ、塾さえも乱立している。工場で作られた食品を食べ、工場で作られた服を着、コンクリートの箱の中でテレビを見て大きくなって行く子供達、それが普通と思うことの恐ろしさ。
自然のふところに抱かれ、大地をふみしめ、季節季節の果物を楽しみ、母の手の温みを感じて育った私達の幼い頃。あまりにもかけ離れた現実。これで良いのだろうか。次の世代の子供達がこれで幸せだろうか。私は話し合いたかった。自分の16年の経験を通し、本当に幸せとは・・・、そして母親の役目とは・・・・・。
現実はきびしい。政治だといわれ・・・組合だといわれ、何でただ1人ずつの主婦の集りが政治なのだろう。誰にも気がねなく、誰からも左右されない話し合いの場が欲しい。そして、心ゆくまで、家庭のこと、子供のことを話したい。
私のその時の気持ちを受けとめてくださったのが当時の公民館長、現在の小郡町長だ。そして生まれたのが「杉の子生活学校」、昭和51年8月10日のことである。それまで、山口市に住みながら一の坂生活学校のことも知らず、館長の「それなら生活学校を作れいや」の一言で、私は何も知らず「はい」と名づけた始末。
◆休む間もなく
それから1年余。8人のメンバーの働きぶりは超人的だと思う。洗剤から始まり、パン・肉まん・ごみに至るまで、休む間もなかった。それほど問題はあるのだ。ここでその一例として「パン」と「ごみ」についてとり上げてみよう。
まず「パン」だが―
私達の生活学校の基本はあくまでも「作ること」にある。「パンを焼いてみよう」。そして自分で焼いたら、こんなにおいしく、栄養があり安全だ、と他の人々に知らせていく。何回も地域の主婦を集めてパン焼きの講習をする。そのたびに「おいしい」「安い」の声。そのうち、「はてな」の声。「どうして市販品はかびがつかないの」「ふわふわっとしているの」「白いの」。
こうなったらもうしめたものだ。私達8人は、パン工場に行く。工場長の話しを聞く。添加物を調べる。東京の神田精養軒の望月氏の話しを聞き、無添加の小麦とライ麦の全粒麦のパンを買って帰る。そうして、小郡町でも、このようなパンを販売するシステムにならないか研究する。なぜなら、焼けない人のためにだ。どうしてもひまがなくて焼けない人もいるのだから・・・。
私達の要求に立上ってくれたパン業者がいた。そこの研究室では、始めは「そんな異質のパンは、都会でならいざしらず、こんな田舎町では!」と一笑され、私の都会人的な考え方≠ニきめつけられてしまった。
しかし話し合いを重ねるうちに、実験的に焼いてくれ、延べ200人位が試食しただろうか。それでも、それを市場に出すとなると、1日50本を小郡で売らなくてはならない。5000世帯の田舎町で黒パンを日に50本はとても・・・と、話しは流れる。が、私達の胸に、このままでは、という気持ちがあったのだろう。町の文化祭に、もう1度PRし売ってみては・・・という声、「よし」と意を決して交渉。何しろ資金零の8人だ。
私達の熱気におされたのか、3度研究室が立ち上る。1日50本、2日間で100本。試食用1日10本と決まる。売り上げの金銭については私達はタッチしない、と。さて困った。1日50本か。「50本位売らなくて、何の運動ですか」と研究室。私達は「パンおばちゃん」になり、試食に力を入れる。
パンフレットを作り、何をのせたらおいしいか研究する。結局、キャベツとニンジンの千切りを台にその上に、ひじき・納豆・シラスと何でも家庭の常備菜をのせた。それが1番おいしかった。それに味噌汁と・・・。レバーも、ニンジンのジャム、カボチャの煮ものキンピラゴボー・・・。何でもおいしい。
―そして当日。10種余の副食を前に「いかがです」のパンのおばちゃんの声。結果は・・・。2日間で2倍の200本が売れた。しかも2日目は午後2時に閉店。品切れになってしまった。珍しさと、試食用のおいしさと、言葉巧みなおばちゃまの言につられての、このみごとさ。ある人曰く「何であんなまずいもの売ったの。確かあそこではおいしかったのに、家に帰ったらとてもじゃない。」と―。
8人の反省― まだまだ小郡で50本常時売るのは無理。文化祭はおまつりだから。おまつりにだけは、綿菓子も、おしんこ細工のあめも、買ってもらえた遠い日のことを思うと。あと4、5回これを重ねよう。それにしても、同じパン屋が出している黒パンはにせものだし、菓子パンは添加物の塊り。一般の人達が買う、このようなパンこそ安全にする必要があるのではないだろうか。協力はありがたいことだけど―。
◆物の命のはかなさ
次に「ごみ」について記そう。
町が「小郡町の焼却炉が考朽化し、破れる一歩手前になっている。再建の見通しはたっていない。だから、ビニール・プラスチック類は、完全に仕分けること」を打ち出したのが今年の6月。私達は行政の手落ちをどうするのか。また、単に炉がこわれることのみで、仕分けるのか、まずは炉の状態を見ようと、いうことで、朝4時30分、収集車に乗る。 町の角から角までの作業、および焼却炉におろされたごみの山。思わずうなってしまった。これが「燃えるごみ」として出されたものなのだろうか、と。空かん・びん・靴・なべ・パックやトレーはいうに及ばず・・・。町側の言葉もうなずける。これから活動が始まった。
メンバー内での話し合いに話し合いを重ね、結論としては「家庭から出すごみを少なくすること」ということだった。土に返せるものは返そう。いらない包装はやめてもらおう。利用できるものは利用しよう、と。そこで他の地域団体への働きかけ・・・。
しかし、「小郡町にも大きな何でも燃やせる炉を作ろう」という声が多数だった。大きな炉に主婦が「何でもポイ」とすることはどうなのか。幸せなのか。また「小売店もスーパーも自分達が使ったトレー類を回集したらよい」という意見もあったし、「町側は月に2回パック類を収集すべきだ」という意見もあった。しかし、どちらにせよ、燃やすために行きつくところは、山口市の大内だ。小郡の公害をよそにもっていくことは、まことに手前勝手である。
要するに「ごみを少なくする」という点に的をしぼり一般住民の説得を続ける。一方、商店に対しノーパック運動を開始した。6月に5スーパーのトレー使用状態調査。7月、スーパーとの話し合い。ごみを少なくするためにできるだけトレー廃止を要求。以降、8月中調査、9月再び話し合い。商店側は一歩もゆずらず、トレーは6月の段階と変らず。この間、地域住民にパックに関するアンケート調査開始し集計する。パック必要なしが70%。
10月、この調査をもとに話し合い。そこで必要ないと思われる5品目「さつまいも・にんじん・ごぼう・さといも・れんこん」のトレーを廃止することを要求。町から小郡町全体の小売店に通達をだしてもらう。それ以来、5品目にかぎりトレーは見当たらない。これでどの位ごみが少なくなったことか。
10月、再び収集車に乗る。6月の状態と変らず。ビニール袋パックはいうに及ばず、サンダル・ハンドバックと・・・。町の通達も、私達の働きも何もない。まして、ビニール類を燃やすことが公害となって自分達の健康に影響してくるなど夢にも思ってないらしい。それにしても5人分はたっぷりあろうと思われるご飯、封を切っただけの菓子、ビニール袋いっぱいのゆで栗。一部落のごみで何人分の食事が作れるだろう。正札のついた衣類、1頁も使ってないノート。物の命のはかなさともいうべきか。
◆生活とは・・・運動とは・・・
私達は、常に「母親とは何か」を考える。また「幸福な生活とは何か」を考える。物質文化に恵まれていること― すなわち幸福ではないのだろうと。そして「運動とは何か」―。 それは自分の生活を捨ててまでするものではなし、できるものではない、と。自分の生活が正常に維持されて始めて、他に目が向けられるのではないだろうか。机上の空論では誰もついてこないだろう。私達1人1人の母親が朝のご飯を作る時、その味噌汁のだしは何を使おうかと考える時に、始めて化学調味料に疑問がわき、コロッケを作った時、始めて市販品の安値に疑問がわくのであろう。
市販品と同じ量の肉を使うと材料費だけでも倍以上の値になる不思議。そこに植物蛋白の存在を発見するのである。味噌汁もコロッケも既製品を使っている主婦に何ら疑問は起こらないのである。雑巾までスーパーで売っている現在、シーツの古いのから台ふきが10枚もとれることを知っている母親が何人いるだろうか。子供に「今の子は物の大切さを知らない」と説教する前に自分の身の囲りをもう1度振返ってみよう。運動とは多くの人間が集まって叫び宣言し、署名するだけのことではない。1人1人の人間が、自分を大切にし、家族といつくしむこともだと思う。1人1人の母親が、真剣に家族の健康を考え、自分自身の生き方を考えた時、自然に起こるものかもしれない。 |