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1979年11月21日(水) 朝日新聞

子育て論争 読者の反響から
コロッケ
「居座り専業…胸を張ろう」
子どもを守るトリデ再認識

 
 「女は家に」というのは、これまで女にとって、いやというほど聞かされてきたせりふだ。そこで、これを裏返して、「女も外へ」。共働き時代の流れは、そうだ。でも、こう決めつける前に、「居直り専業」とでもいった主婦たちの言い分も聞いてほしい。まずは、山口県吉敷郡・主婦・関ヨシミさん(44)が寄せてくれた便りから―
 
  私には共働きなんて、とうていできないのです。この三日間、町の文化祭のために公民館に詰めていて、やっと解放されて、まずやったことは、30個のコロッケなんです。コロッケを作ることだったのです。
  二時間もかかったでしょうか、ジャガイモをつぶして肉をいためて、大きな中華なべに油をなみなみと入れて……一つ一つスーッと滑らせていく……何と気持ちがよかったことか。高く高く盛り上げたコロッケ。パクついている子どもたち。ああ、やっと、もとの生活に戻りました。たった朝9時から5時までだったのに……しかも三日間だけですよ。
  私には共働きなんてダメなんです。肉まんを40個も作り、子どもたちが片っ端から平らげる姿をみている時が、一番幸福なんです。豆腐を作り、パンを焼き、つけ物をつけ込んでいる時が、一番幸せなんです。
  財布が寂しくなると、大根の葉と目玉焼き、ヒジキに切り干し大根、ニヤッと笑って差し出すのです。おなかの皮がよじれるほどおかしいのです、息子たちの「またかあー」という顔が。精米機のダイヤルを黒、白、黒と調節し、イリコを三匹おわんに泳がせ、大根の間引きをざる一ぱい食卓に据える。これ、みんな、私と私の家族との無言の会話なのです。
  私はいま必死になって、足を踏ん張って、守っているのです。何をかって ? ホラ、ここにあるアッタカーイ、フワフワっとした雲みたいなものを。これはすぐ逃げてしまうのです。懐がちょっと温かくなって、財布がふくらんでも逃げちゃうのです。だから私、絶対に共働きしないんです。
  でも、社会への参加はあるのです。「一日三匹イリコを食べよう」って、もう3年も叫んでいるでしょう。私は教員の免許状は持ってるし、子供は高2と小4の二人だし、共働きの条件はそろっているのです。けれど……です。

 女が外に出て行くことが「進歩的であり、社会参加だ」という図式を立てていけば、関さんのように手づくりで手のかかるやり方は、「時代遅れ」となるのだろう。でも、ここでは、その図式をもう一度、見直してみたい。

 
 
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1977年(昭和52年) 12月12日(月) 朝日新聞

虫歯作らせてはダメ お母さんへ手作り奨励 1日3匹いりこを

 
  小さな芽

1年が間もなく終わろうとしている。ここに登場するのは、それぞれの地域、職場で、働くもの、母として行動した人たちである。健やかな生活を願い、むしばまれた慣習の廃止に、差別の解放に目を向けたこの小さな芽≠ェ花開くことを新しい年に期待して。
中学3年、小学2年の2児の母親、関ヨシミさん(42)=山口県吉敷郡小郡町=は6月、PTA活動として「1日3びきいりこをたべよう」とお母さんたちに呼びかけた。スーパーのいりこは空っぽになった。歯の先生はこの運動を学会で報告した。そして11月、「ひととき」欄で、その経過を報告した。共感や励ましの電話、手紙が相次いだ。
「きっかけは、子供が通っている小学校が歯の治療状態がいいということで表彰されたことからです。それも結構。でも要は虫歯を作らないことでしょう。それは学校のやることではなく親のつとめです。歯をみがく、口をすすぐもいいけど、甘いお菓子を食べさせていてはカルシウム不足になります。お母さん、子供の健康を守るため、手近にある、いりこを食べさせましょう≠ニいうことだったのです」ジーパンにセーターの関さんは血色がいい。お茶受けに出たのが、から揚げのいりこと、香ばしい自家製クッキーようのもの。おふくろの味がする。
「これ冷やご飯、おから、脱脂粉乳、卵をまぜて揚げたものに黒砂糖をちょっと、からませたのですよ。残り物は、みなこうして利用します」

大きな反響呼ぶ

関さんはこれまでノーパック、合成洗剤の追放、無漂白パンの実施など、自分の問題として、ひとり実践してきた。そのなかでも、このいりこ3びき♂^動ほど大きな反響を呼んだものはなかったという。それは虫歯に困っている現実と、組織、つまり母親たちが信用している学校を通したこと、そして、これこそ母親の勘によるいりこ3びき≠ニいう具体的なスローガンにあったのではないか、と分析する。
これまで、運動という社会的な活動にも、どんな政党、グループにも入ったことがない。ところが昨年、子供が入学してPTAの保健給食委員となり、どうしても黙ってはおられなくなった。
例えば保健の先生から、こんな心が暗くなる話を聞かされた。ある日、「おなかが痛い」と泣く子に食事をさせたらケロリと治った。すきっ腹の登校だったのだ。
1クラスに、朝食抜きのこんな子が1割はいる、と。給食に目を向ければ。なぜ、子供たちに漂白した真っ白なパンを食べさせるのだろう、などと疑問は次々にわいた。
「でも1年間はコテンコテンにやられました。あなた、給食のことをいうのは政治ですよ≠ニもいわれて。何もしゃべれないんです。けれど子供が何を食べているのか、母が知ろうとするのは当然でしょう」せめて話し合う場だけでも、と有志のお母さんたち6、7人と公民館に生活学校が生まれた。

いろいろと経験

チャキチャキの江戸っ子。昭和36年、大学助手として赴任の夫とともに山口へ。月給1万5千円。自分の手で作らねば食べてはいけなかった。生まれて初めて肥えをくみ、野菜を作り、そうして16年がたった。パン、豆腐、みそ、チーズにおやつ、洋服ばかりか着物を染め、縫う。「自分で作れないものは買わない」オール手作りの暮し。そして、ある日、ふと周りを見たら、これは、これは。朝食を作らないお母さん、パートに出てインスタントラーメンを食べさせているお母さん、いりこの出しの味さえ知らない若いママがいる。小学校4年の時に集団疎開。きれいな多摩川で泳いだこともある。今は汚染されたその川。飢えの時代、よい時代、すべての日本を知っている最後の世代、ともいう。
「そう思ったら40の声を聞いてウカウカしてちゃダメ。若いお母さんたちに生活の大事なことを伝える義務があると考えたのです。きれいな日本にして次代に渡さなければ」
初めのブームは去って、いまスーパーのいりこは元の姿にかえりつつある。じっとしてはいられない気持ちを「ひととき」に書いた。

家族を守ること

「いりこを3びき食べればいいの∞いりこを3びき食べたって何になる≠ニいわれる方がいます。私の願いはそうではなくお母さん、せめて、いりこの出しで、みそ汁くらい作ってください≠ニいうことなのです」母、妻の役目とは何か、それは家族を守ることではないかと関さんは繰り返す。行政の怠慢をつく前に、そこにある事実をふまえ、自分で確かめ、ぶつかったら歩き出す実践派の言葉には重みがある。
このごろPTA活動も「こんなにすいすい通っちゃっていいのかしら」と思うほど風通しがいい。「子どものことを本気で考える普通のお母さんの話、というのが分かってもらえたのでしょうか。また私自身にも、PTA活動は学校の目標とともに歩まねば、という反省にもなりました」
 
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生活学校 1978年1月号

一人ひとりの母親が家族をいつくしみ・・・
消費者運動とは、多くの人間が集まって叫び、宣言し、
                   署名することではない― と  、関さんはいう。

 
  ◆話し合いの場を求めて・・・
  私が山口県に引越してきたのは、昭和36年だったと思う。東京という大都会から、山口県鋳銭司鷹の子・湯田・小郡と居を移し、2人の子を育て、振り返ってみたら、16年経っていたのである。
  鷹の子村での自給自足の生活、無医村に近い状態、ここで子供を生み育てることの難しさ。しかも大学の教師の月給、私がその3年間に考え、実行したことは、栄養があり、安く、安全なものを家族にどうしたら食べさせられるか― という一言に尽きる。結論は簡単、「自分で作ること」であった。湯田に移っても同様、小さな庭を耕したのは言うまでもない。ただ夢中だった。家族の健康を守るだけで・・・・。
  16年前に今ほど添加物も洗剤もない。加工食品もそれほど恐れることはなかったろう。だが、同じ金額をだすと、自分で作った方が量が多かった。その魅力には勝てない。私はパンからトーフに至るまで作った。そして習慣とは恐ろしいもので、現在まで続いている。
  それが、ふと子供の手も離れ囲りを見るとどうだろう。加工食品・プラスチック・調味料・・・・と、川は洗剤で泡だち、野菜は農薬で光り、既製服は町にあふれ、塾さえも乱立している。工場で作られた食品を食べ、工場で作られた服を着、コンクリートの箱の中でテレビを見て大きくなって行く子供達、それが普通と思うことの恐ろしさ。
  自然のふところに抱かれ、大地をふみしめ、季節季節の果物を楽しみ、母の手の温みを感じて育った私達の幼い頃。あまりにもかけ離れた現実。これで良いのだろうか。次の世代の子供達がこれで幸せだろうか。私は話し合いたかった。自分の16年の経験を通し、本当に幸せとは・・・、そして母親の役目とは・・・・・。
  現実はきびしい。政治だといわれ・・・組合だといわれ、何でただ1人ずつの主婦の集りが政治なのだろう。誰にも気がねなく、誰からも左右されない話し合いの場が欲しい。そして、心ゆくまで、家庭のこと、子供のことを話したい。
  私のその時の気持ちを受けとめてくださったのが当時の公民館長、現在の小郡町長だ。そして生まれたのが「杉の子生活学校」、昭和51年8月10日のことである。それまで、山口市に住みながら一の坂生活学校のことも知らず、館長の「それなら生活学校を作れいや」の一言で、私は何も知らず「はい」と名づけた始末。

◆休む間もなく

  それから1年余。8人のメンバーの働きぶりは超人的だと思う。洗剤から始まり、パン・肉まん・ごみに至るまで、休む間もなかった。それほど問題はあるのだ。ここでその一例として「パン」と「ごみ」についてとり上げてみよう。
  まず「パン」だが―
  私達の生活学校の基本はあくまでも「作ること」にある。「パンを焼いてみよう」。そして自分で焼いたら、こんなにおいしく、栄養があり安全だ、と他の人々に知らせていく。何回も地域の主婦を集めてパン焼きの講習をする。そのたびに「おいしい」「安い」の声。そのうち、「はてな」の声。「どうして市販品はかびがつかないの」「ふわふわっとしているの」「白いの」。
  こうなったらもうしめたものだ。私達8人は、パン工場に行く。工場長の話しを聞く。添加物を調べる。東京の神田精養軒の望月氏の話しを聞き、無添加の小麦とライ麦の全粒麦のパンを買って帰る。そうして、小郡町でも、このようなパンを販売するシステムにならないか研究する。なぜなら、焼けない人のためにだ。どうしてもひまがなくて焼けない人もいるのだから・・・。
  私達の要求に立上ってくれたパン業者がいた。そこの研究室では、始めは「そんな異質のパンは、都会でならいざしらず、こんな田舎町では!」と一笑され、私の都会人的な考え方≠ニきめつけられてしまった。
  しかし話し合いを重ねるうちに、実験的に焼いてくれ、延べ200人位が試食しただろうか。それでも、それを市場に出すとなると、1日50本を小郡で売らなくてはならない。5000世帯の田舎町で黒パンを日に50本はとても・・・と、話しは流れる。が、私達の胸に、このままでは、という気持ちがあったのだろう。町の文化祭に、もう1度PRし売ってみては・・・という声、「よし」と意を決して交渉。何しろ資金零の8人だ。
  私達の熱気におされたのか、3度研究室が立ち上る。1日50本、2日間で100本。試食用1日10本と決まる。売り上げの金銭については私達はタッチしない、と。さて困った。1日50本か。「50本位売らなくて、何の運動ですか」と研究室。私達は「パンおばちゃん」になり、試食に力を入れる。
  パンフレットを作り、何をのせたらおいしいか研究する。結局、キャベツとニンジンの千切りを台にその上に、ひじき・納豆・シラスと何でも家庭の常備菜をのせた。それが1番おいしかった。それに味噌汁と・・・。レバーも、ニンジンのジャム、カボチャの煮ものキンピラゴボー・・・。何でもおいしい。
  ―そして当日。10種余の副食を前に「いかがです」のパンのおばちゃんの声。結果は・・・。2日間で2倍の200本が売れた。しかも2日目は午後2時に閉店。品切れになってしまった。珍しさと、試食用のおいしさと、言葉巧みなおばちゃまの言につられての、このみごとさ。ある人曰く「何であんなまずいもの売ったの。確かあそこではおいしかったのに、家に帰ったらとてもじゃない。」と―。
  8人の反省― まだまだ小郡で50本常時売るのは無理。文化祭はおまつりだから。おまつりにだけは、綿菓子も、おしんこ細工のあめも、買ってもらえた遠い日のことを思うと。あと4、5回これを重ねよう。それにしても、同じパン屋が出している黒パンはにせものだし、菓子パンは添加物の塊り。一般の人達が買う、このようなパンこそ安全にする必要があるのではないだろうか。協力はありがたいことだけど―。 

◆物の命のはかなさ

  次に「ごみ」について記そう。
  町が「小郡町の焼却炉が考朽化し、破れる一歩手前になっている。再建の見通しはたっていない。だから、ビニール・プラスチック類は、完全に仕分けること」を打ち出したのが今年の6月。私達は行政の手落ちをどうするのか。また、単に炉がこわれることのみで、仕分けるのか、まずは炉の状態を見ようと、いうことで、朝4時30分、収集車に乗る。 町の角から角までの作業、および焼却炉におろされたごみの山。思わずうなってしまった。これが「燃えるごみ」として出されたものなのだろうか、と。空かん・びん・靴・なべ・パックやトレーはいうに及ばず・・・。町側の言葉もうなずける。これから活動が始まった。
  メンバー内での話し合いに話し合いを重ね、結論としては「家庭から出すごみを少なくすること」ということだった。土に返せるものは返そう。いらない包装はやめてもらおう。利用できるものは利用しよう、と。そこで他の地域団体への働きかけ・・・。
  しかし、「小郡町にも大きな何でも燃やせる炉を作ろう」という声が多数だった。大きな炉に主婦が「何でもポイ」とすることはどうなのか。幸せなのか。また「小売店もスーパーも自分達が使ったトレー類を回集したらよい」という意見もあったし、「町側は月に2回パック類を収集すべきだ」という意見もあった。しかし、どちらにせよ、燃やすために行きつくところは、山口市の大内だ。小郡の公害をよそにもっていくことは、まことに手前勝手である。
  要するに「ごみを少なくする」という点に的をしぼり一般住民の説得を続ける。一方、商店に対しノーパック運動を開始した。6月に5スーパーのトレー使用状態調査。7月、スーパーとの話し合い。ごみを少なくするためにできるだけトレー廃止を要求。以降、8月中調査、9月再び話し合い。商店側は一歩もゆずらず、トレーは6月の段階と変らず。この間、地域住民にパックに関するアンケート調査開始し集計する。パック必要なしが70%。
  10月、この調査をもとに話し合い。そこで必要ないと思われる5品目「さつまいも・にんじん・ごぼう・さといも・れんこん」のトレーを廃止することを要求。町から小郡町全体の小売店に通達をだしてもらう。それ以来、5品目にかぎりトレーは見当たらない。これでどの位ごみが少なくなったことか。
  10月、再び収集車に乗る。6月の状態と変らず。ビニール袋パックはいうに及ばず、サンダル・ハンドバックと・・・。町の通達も、私達の働きも何もない。まして、ビニール類を燃やすことが公害となって自分達の健康に影響してくるなど夢にも思ってないらしい。それにしても5人分はたっぷりあろうと思われるご飯、封を切っただけの菓子、ビニール袋いっぱいのゆで栗。一部落のごみで何人分の食事が作れるだろう。正札のついた衣類、1頁も使ってないノート。物の命のはかなさともいうべきか。

  ◆生活とは・・・運動とは・・・

  私達は、常に「母親とは何か」を考える。また「幸福な生活とは何か」を考える。物質文化に恵まれていること― すなわち幸福ではないのだろうと。そして「運動とは何か」―。 それは自分の生活を捨ててまでするものではなし、できるものではない、と。自分の生活が正常に維持されて始めて、他に目が向けられるのではないだろうか。机上の空論では誰もついてこないだろう。私達1人1人の母親が朝のご飯を作る時、その味噌汁のだしは何を使おうかと考える時に、始めて化学調味料に疑問がわき、コロッケを作った時、始めて市販品の安値に疑問がわくのであろう。
  市販品と同じ量の肉を使うと材料費だけでも倍以上の値になる不思議。そこに植物蛋白の存在を発見するのである。味噌汁もコロッケも既製品を使っている主婦に何ら疑問は起こらないのである。雑巾までスーパーで売っている現在、シーツの古いのから台ふきが10枚もとれることを知っている母親が何人いるだろうか。子供に「今の子は物の大切さを知らない」と説教する前に自分の身の囲りをもう1度振返ってみよう。運動とは多くの人間が集まって叫び宣言し、署名するだけのことではない。1人1人の人間が、自分を大切にし、家族といつくしむこともだと思う。1人1人の母親が、真剣に家族の健康を考え、自分自身の生き方を考えた時、自然に起こるものかもしれない。
 
 
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地域闘争 1978年6月号

特集●みんなで変えよう学校給食
ぬくぬくともぐりこむ小さなアリンコ
一晩寝て起きたら又元気がでる

 
その1 娘 手塩にかけた料理で育つ

  私の娘は小学3年。体も精神もごく普通の娘。目が悪いので眼鏡を買ってやったら「ひげも買ってくれ」と言う。「博士になれるから」とのこと、ペガサスに乗った天使の絵が得意で大きくなったら絵画きになると意気盛ん。夢みる幼女か。
  この娘が入学するについておもしろい話しがあった。入学のひと月位前だったろうか近所の同級生の母親から「給食はどうしますか」との質問。私にとって考えてもみなかったこと。「給食か・・・。学校に行ったら自動的に食べさせられてしまうのか・・・。しかしどんなもの食べてるのかな・・・」それから給食についての本を読み、記事をあさり・・・ひと月じゃ何もわからない。ただ自分の家の食事とは大分ちがうぞということだけは確実だ。私の家の食事とは、5分搗き米。全粒粉の黒いパン、黒い菜種油、いりこのだし、手作りの麦みそ、子供達は加工食品の味をしらない。ジュースもキャラメルも、チョコレートも。かまぼこも、ソーセージも買わない。理由は簡単、自分で作った方が安くて量があるから。結婚した昭和35年頃、味の素など貴重品だった。「高いな」ということを覚えている。それ以来買ったことないから値段も知らない。プラスチックがやっと出始め、食品添加物とか食品公害とかいう言葉もなかったようだ。その後チクロが問題になった時も、AF2が騒がれた時も、リジン添加が良いか悪いかといわれた時も何か関係ないという気持で通り過ぎてしまった。自分の家で豆腐を作り、菓子を作り、パンを焼いていたから・・・。さてここで入学となると本当に困ってしまった。親たる私が給食のパンの味を知らないのだから。パンの中に何が入っているのかわからないのだから。自分の生んだ自分の子供に自分の知らないものを食べさせられるのはいやだ。特に、パンは毎日毎日9年間続くのだから・・・と。特に、娘はマーガリンも白砂糖もショートニングも知らないし、まして防腐剤など、普通の子供の100分の1も口に入ってないはずだ。何故この娘に給食だからといって食べさせなければならないのか。添加物は慣れさせる問題ではない。9年間食べ続けるより、8年、8年より7年と少ない方がいいにきまっている。給食のパンも多分添加物は市販品並に入っているだろう。私の納得のいくまで食べさせたくない。6才の娘に。それで担任に提出した書類の病名「添加物アレルギー」。それから2年間パン拒否は続く。この間の娘と、友達と、担任と、親と、思いは種々あったであろう。しかし表面は何ごともなかった。ガキ大将。先生大好き。男の子とっても仲好し。学校休まない。パン少しあげたよ。己珠恵ちゃんのおかあさん手作りの名人だね。― 教育とは決して同じものを食べ同じものを着、同じ進度で勉強することではないのだ。
  もし教育とは40人がみな同じ状態で始めてだきるものなら、私の娘は、2年間教育されなかったことになる。とんでもないこと。100人の中に1人だけ異なった状態であっても、「生きる」という現実には変わりないはず。個人個人の現実を尊重し、把握し、アドバイスし、伸ばしていく。これが教育であり教師であるはず。たかが給食のパン位で娘が痛み、病み、親がおたおたする位で何の教育であろう。教育とは親と教師と子供と一体になること。


その2 私 知る努力と知った驚き

 この2年間に種々のことを言われた。「自分の子供だけいいもの食べさせて」「利己主義」「大学の教師の子だからいばってできる・・・」どれもこれも、1年目の話し。今は絶対にこの人達も私のことをこのようにはいうまい。子供にパンを持たせる反面、「知らなくてはならない」ということで、娘の学校のパンの中味の分析、使用しているマーガリンの分析、ショートニング、防腐剤、カルシュウム剤、更に製粉工場、パン工場に足を伸ばす。私のパン拒否は、給食という体制に反対してではなく、個人的な全く1人の母親として、自分の娘に食べさせることの不安であったから。給食という大きな組織も体制も知らない。だからそんなこと給食反対等言えない。パンを調べていくと、給食法とかでパンの中味もある程度限定されている。とするとすぐ少しでもよいパンにするためには、パンの焼き時間を長くしてもらうことが1番だ。それで何かの折に学校に「パンの焼き時間を長くしてください。22回のうち15回までは生焼けでしたから・・・」と提案する。そうしたらPTAの会長に「給食のことを父母が言うのは政治だ」とはねかえされた。その時の私のおどろき。少しでも知ろうとし、PTAの部会でも保健給食部に入り努力しているのに。まるで私のうしろに何かあって、学校給食という体制を破壊しようとでもしていると思ったらしい。自分の子供が食べているものを知ろうとし、こうしてもらいたいと言うこと、これが何で政治だろう。更に食器洗いの洗剤を調べてどうしても石けん洗剤にしてもらいたくて提案すると「自分の子だけに食器を持たせてきたらよい」と言われる。自分の子供だけ防ぐのは簡単だ。しかし子供はみんな次の世代を託す大切な子供達なのだ。教育のことを話したら政治だと言われ、給食のことを聞いたら政治だと言われ、一体母親はどうしたらいいのか、何でも話せる場が欲しい誰にも左右されないどんな政党にも邪魔されない母親の集まり。そこで創ったのが生活学校。メンバーは8人、少ないけれど、知りたいことは徹底的に調べる。又業者にしてもらいたいことは最後まで通す。一方、PTAの保健部会に入り、母親がしなくてはならないことを話しあう。PTAという組織がいいとか悪いとか、給食という制度がいいか悪いか、そんなことではない。今ある制度を肯定して少しでもよくすることに努力する。そうして努力してもどうにもならなかったらつぶしてしまったらいい。PTAの場で本当に子供の健康のことを話し合えるようになること、家庭の食事はもとより、給食のことまで。その場を作ること。私は2年間たってみて、少しではあるが学校も父兄も、私達の話しに耳を傾けるようになったような気がする。まだまだといわれ、アカだ(?)といわれても、くしゅんとなることはない。一晩寝て、起きたら又元気がでる。ぶつかってみよう。道はあるようだ。自分の娘にパンを持たせ、他方、PTAの保健給食部員とは考えてみると変かもしれない。しかし自分の娘だけ安全ならいいという考えなら、強いて袋だたきにあうことを承知で部会に属することはないかもしれない。何回も言うようだが、自分の子供だけではないのだ。


その3 任意制 まず制度からではダメ

 私は現状では任意制は反対だ。どうしても不安だったら、自分の考えで個人個人で拒否してみたらよい。私の娘の場合と個性が異なるように異なった結果になることもあろう。けれどそれでもよい。風邪を引いたから、腹をこわしたから、その食物は心配だから・・・そんな時に拒否してみたらよい。そういう者がたくさん集まって任意制という制度ができるのであって、1人や2人の事例で制度はできない。第一、任意制にした時、給食費は高いから、払えないから、と言って菓子パンを持ってきたらどうだろう。1度に3000円という金額は払えなくとも、100玉1つなら払えるということも。第二、現在の家庭の食生活のあり方から考えて任意制にすることの意味をどの位の人が理解できるであろうか。
  任意制は私個人としては理想と思う。本当に忙しい母親の子は給食をとり、弁当をつめたい母親は弁当をつめると、自由に。特に中学生の場合弁当こそ親子をつなぐ唯一のものなのだから。しかし急いではいけない。


その4 家庭の食事 これがすごく大事

 平均して家庭の食事と学校給食とどちらが手をかけているだろうか、ここ小郡小はセンター方式といっても小、中学合わせて2500。ひと月平均22回として、主菜はほとんど大釜でグツグツしている、長崎チャンポンのだしをとるために鶏がらのスープをとる。ホワイトソースを作るため150本の牛乳を使う。ハムエッグを作るため1人がオープンにかかりきりになる。ふくさ卵を作る、プリンを作る、とりあげてみたら品数こそ1品であっても必ず原料から作っている、勿論、そのハムは無添加でもないし、肉も植物蛋白であろう。しかし、ここで家庭の食卓と比較したらどうだろう、冷凍食品と化学調味料と惣菜が売られている状態からみて優劣はつけにくいことと思う。「私達の食卓が私達の手から離れた工業文明によって支配されている。そして近代的とかニューファミリーとかいう呼び声に踊らされ、みすみす工業文明のとりこになっている。それに気づかず先祖が築き上げてきた、身土不二の食文化を次の世代に伝える意味を理解しない人が多い」と神田精養軒社長の望月継治氏は言っておられる。そして「オカアサンヤスメの献立」を母親は近代的食事と考えていると 歎いていられるが、私は「オカアサンヤスメの献立」さえ今は作られていないと断言する。(オ)ムレツ・(カ)レー・(サン)ドイッチ・(ヤ)キソバ・(ス)パゲッティ・(メ)ダマヤキ・どれをとっても、冷凍食品にあり、電子レンジなるもので秒速で食卓に並ぶではないか。まして、おふくろの味とかいわれる日本の伝統的常備菜を作る人間がどの位いるだろう。長崎チャンポンのダシを鶏がらでとっている母親が何割いるだろうか。家庭の食卓は栄養物の注入にあるのではない。ガソリンスタンドではない。教育的な場であり、その食卓の延長線上に学校給食があるのだ。私達が食品公害を論じ、学校給食を論じている時、それより以前の食卓をあずかる我々主婦の精神を考えてみただろうか。卵に、肉に抗生物質が入っていると騒いだ時に、クスリを使用しなくてはならないような生産体制を批判する前に、私達自身の食生活の在り方を考えてみただろうか。食糧問題を考える時、消費者の側からも考えてみただろうか。200カイリの問題でも、余剰米の問題でも、行政のみ責めるのではなく、母親1人1人が考え自分達の食卓で実行し、質も量も安全なものにして次の世代に渡すことが任務ではないだろうか。


その5 母親 いりこ3匹運動からみる

 昨年の6月以来、小郡町ではPTA保健給食部の提唱によりすすめている「たった1日3匹」。これが母親にはどのようにとられただろう。3月末の調査では5%にも充たなかった。いりこでだしをとることの手数、おやつに油であげる、又はからいりすることのめんどうさ、それに加えて、ケーキを作ったり、プリンを作ったりのようなのと異なり見た目の悪さ。そこには依然として科学調味料が巾をきかせて、甘いお菓子が大手を振っていることはいうまでもない。この調査を手がけられた保健の先生の言葉「もう母親はあてにはできません。給食に1日3匹ずつつけてもらいます」。給食センターの所長の言葉、「センターでは、カルシウム源は計算して満たしてありますから」私の1人ごと「みんな狂ってる、自分の子なんだ、これこそ母親のやる仕事なんだ。先生にも給食センターにもまかせられない」。


その6 給食 1人1人の母親が変える

 私達は、何を望んだらいいのだろう。無添加のハムだろうか。有機農業の野菜だろうか。確かに子供達には無公害なものを食べさせたい。けれど今、母親達は全部がそれを望んでいるだろうか。一部の者が声を大にして無公害なものをと叫んでも、全体の母親の声になるだろうか。私達1人1人の母親が、それを真に望んだ時、給食は変っていくのであり、一部の者の圧力により変っていくのは望ましい姿ではない。食品公害とか、無添加とかいう形に表れたもの、スプーンとか、食器とか目に見えたもの、それを変えるのはたやすい。けれどそこに根ざしている「食」というものに対する考え方、それが変らない限り、いつまでも給食拒否の運動は続き、給食批判の声は高くなるだろう。一方家庭の「食」に対する考え方、これが変化しない限り、形だけ変っても無に等しいのではないか。
  私達の住むこの日本は、食糧は本当に豊かなのだろうか。私達が戦時中、物資が乏しい時、一粒のごはんさえも拾って食べ、目がつぶれるよ、バチがあたるよと育てられてきた。けれど今、母親がそんなこと言うだろうか。私が、町のゴミの収集車に乗って調べた時、一部落のゴミの中に、何十人分もの残飯がでてきたことからみても、子供に対して何も言ってはいない。こんなにむだにする位、食糧は豊かなのだろうか。輸入に頼っている現状なのに、「食糧資源を有効に使うこと、同時に安全性を追求すること、これが大人に課せられた任務である」と望月氏は言っておられる。私達生活学校は3年も前から、小麦の栄養素から考えて、白いパンのむだを唱えてきた。小麦の全粒粉を使い、黒いパンを自分達で焼いてきた。時には、米の玄米を粉にしてまぜた玄米パン、野菜を入れた野菜パンと、自由に自分達の発想で作ってきた。そして、地域活動で白いパンをやめ、黒いパンを食べましょうと講習し、実習してきた。しかし、市販されない限り、拡めることはできない。そこで、大きなパン屋と2年ががりで試作品を作り、試食し、やっと3月に、市販にこぎつけた。この1年間は、普及に力を入れようと思っている。このパンのことも、母親達が本当に子供の体によいこと、虫歯にもよいことがわかったら、自然に給食にもという声が起ってくるであろう。その時の声は強い。その時こそ、真に母親が、理解し、要求するのであるから、関係者は、耳を傾けなければなるまい。子供達に食べさせて、それから家庭の食事まで浸透させるという方法もあろう。しかし、歩みはのろくても、母親の理解を求めることの努力の方が必要だと思う。パンの一例をとってもわかるように、母親も、業者も、子供も、給食関係者も、1つになって進まない限り解決はしない。そして、私が最も給食に望むことは、「私達母親の言うことにも耳を傾けてくれ」という一言に過ぎない。


その7 運動 フツフツと湧き上る暖かさ

 運動とは、それが消費者運動であっても、給食拒否運動であっても、決して旗をたてて、スローガンをふりかざし、宣言したり、署名したりするものではないと考えている。自分達1人1人が、家族をいつくしみ、生活を大切にした時、自然に起るものであり、となりの人と手をつなぐ、その鎖の輪が拡がってみんなの手がつながる、と考えている。自分の食生活が、冷凍食品と化学調味料に支配されている母親の給食批判の声は、真実ではない。日本中の母親がじっと自分の食生活を考え、1ヵ月間、化学調味料をやめて、コブと、カツブシと、いりこを使って暮らしてごらん。その時こそ、町のどんな片すみからも、給食批判の声は起ってくる。誰も音頭をとらなくても。私は、その時を待っている。その時のくるまで、「1日3匹いりこを食べよう」といい「黒パンを食べよう」といい「洗剤をやめて石けんにしよう」といい、ママレモンのかわりに、糠袋を作って売って歩こうと思う。


その8 結論 拒否、調査、活動して

 娘のパン拒否は終りにした。今年の3月で。私の当初の目的は、達したと思うから。即ち、いつでも、どんな時でも拒否はできることを確かめたし、それによって、だれも傷つくことはなかったようだから。又、娘にも40人の中でたった1人異なっていても平気だという気持を持たせることはできたし・・・。学校の中でも、わずかでも、耳を傾ける人間がふえてきたし・・・。パンの甘みも減ったし、焼きもよくなってきている。だからと言って、給食は良いなどと言っているのではない。
 
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1979年4月20日号 朝日ジャーナル

たった一人の給食パン拒否から (列島診断・町の声/村の声)

 
 私の娘は小学三年。体も精神もごく普通の娘。マリヤ・キュリー・ディビー・ジャンヌと名付けた鶏をこよなく愛す。
この娘が入学する時、さあ大変だ、と思ったのが給食だ。給食と言えば加工食品のかたまり。添加物のかたまり。そんな物食べさせたくない。今まで食べてないのだから。たった六歳の娘に。そこで担任に提出した書類の病名に「添加物アレルギー」と書いた。  

それから二年間、娘の給食パン拒否は続く。せっせと全粒粉で焼いたパンを持たせる。バターロールの時はバターロールに。あんパンの時はあんパンに。「おかあさん、ケンちゃんに少しパンあげたの」「己珠恵ちゃんのおかあさんは、パン屋さんなのってさ」。娘は学校大好き、先生大好き、とカバンをゆらし帰ってくる。  

教育とは同じものを食べ、同じ物を着、同じ進度で勉強することではない。クラス四十人の中で一人だけ違っていても「生きる」という現実には変わりないはず。個人個人の現実を尊重し把握し伸ばしていく、これが教育のはず。たかが給食のパンぐらいのことで娘が痛み、親がおたおたして何が教育だろう。

 娘にパンを持たせる一方、私はPTAの保健給食部に入る。そこで「パンの焼き時間を長くして下さい」「洗剤を合成洗剤ではなく石鹸にして下さい」と提案する。そうしたらPTAの会長に「給食のことを言うのは政治的だ」「自分の子だけ家から食器を持たせたら……」と言われる。保健給食部の部会においてこの調子。全くあきれ返った始末。自分の子だけ防ぐのは簡単。現に拒否しているのだから。しかし、どの子も次の世代を託す大切な子供たちなのだ。

 私は現状では任意制は反対だ。自分の考えでどうしても食べさせたくなかったら個人個人で拒否してみたらよい。風邪をひいたから、腹をこわしたから、その食物は心配だからと。そういうことがたくさん集まって任意制という制度ができるのであって、一人や二人の事例で制度はできない。第一、現在の家庭の食生活のあり方から考えて、任意制の意味をどのくらいの人が理解できるだろう。無添加ハムを、無農薬野菜を……と言う。確かに子供たちには無公害のものを食べさせたい。しかし冷凍食品と化学調味料に支配され、夕食セットを家庭に売る車が走り回っている現在、「食」に対して母親がどのくらい考えているだろうか。家庭の食卓を単に栄養物を注入するガソリンスタンドと考えていないだろうか。子供のおやつを食品会社にまかせていないだろうか。

 私たちのPTAで「一日三匹いりこを食べよう」のスローガンを出して二年経つ。しかし今その「三匹」さえ町の人々の頭の上を素通りしていく。

 二年間経って感じたこと…場に応じて拒否することは可能ということ。PTAの内部で食生活について話し合う場を持たなければいけないということ。母親はもっと「食」について自覚と責任を持たなければいけないということ。

 運動とは、それが消費者運動であっても、給食拒否運動であっても、決して旗をたてて、スローガンをふりかざし、宣言したり、署名したりするものではない。自分たち一人一人が家族をいつくしみ、生活を大切にした時、自然に起こるものである。隣の人と手をつなぐ、その鎖の輪がたくさんつながって、大きな大きな輪ができると思う。

 日本中の母親が、一日の間じっと自分の食生活について考え、ひと月の間化学調味料と冷凍食品をやめてごらん!
その時こそ、町のどんな片隅からも給食批判の声は起こり、任意制にしようという声が沸いてくる。誰も音頭をとらなくとも。
私はその時を待っている。

その時のくるまで「一日三匹いりこを食べよう」といい、「黒パンを食べよう」といい、「合成洗剤をやめて石鹸にしよう」といい、ぬか袋を配って歩こう。そして町のあらゆる所で、「100円玉で健康は買えないのよ」と言って歩こう。道は遠いけど。